アガタ・クリスチ Агата Кристи | |
アガタ・クリスチは90年代を代表するソ連、ロシア・ロックを代表するバンド。 ヴォーカルはワジム・サモイロフとグレプ・サモイロフの兄弟が一貫して務め、作曲とキーボードをアレクサンドル・コズロフ、ドラムは結成時はピョートル・マイ、89年からはアリベルト・ポタプキン、その後アンドレイ・コトフが担当。 ロックから始め、ゴシック・ロック、ポスト・パンク、オルタナティブ・ロック、サイコ・ロック、アルト・ロック、グレム・ロックと変遷していった。 バンドとして生ぶ声を上げたのは1985年で、ワジム・サモイロフ、アレクサンドル・コズロフ、ピョートル・マイを中心に小学生時代からの仲間で大学生バンドとして出発。。 アガタ・クリスチーとして正式に登場したのは、1988年2月、スヴェドロフスクの大学のホールでのコンサートの模様が最初のアルバム「第二戦線」。 89年から活発にライヴ活動を始め、ソ連国内だけではなく、ドイツ、フランス、デンマーク、ブルガリアなどの海外公演も行う他、 TV放映されるフェスティバルにも出演した。 1990年に国営レコード会社「メロディア」からレコーディングのオファーがあり、「陰謀と愛」が発表される予定であった。 このアルバムは前年に録音はされたものがあったが、録音状態が悪いということで公にはされず、メロディアで新たに録音したものであった。 しかし、折しもソ連崩壊の時期と重なり、メロディア社は崩壊状態になったため、「シンテス」社からの発売となった。 その後、「デカダンス」が発表された。 1992年にアガタ・クリスチ史上最高傑作と言われているアルバム「屈辱のスター」が発表され、大きな転機を迎える。 94年末にグループは、ライズミュージックのバックアップの元、スヴェドロフスクからモスクワに拠点を移した。 この頃世界的にもその名を知られる存在となり、90年代で一番活躍をするロック・バンドとなった。 95年にアルバム「アヘン」を発表。 その後、音楽性が変遷して、97年に「嵐」を発表して賛否両論を呼ぶ結果に終わった。 98年末に「奇跡」を発表して、これまでで最低の評価を下される。 2000年7月に「マイン・カイフ」を発表し復活。 グループ結成初期の頃の商業主義ではない音を取り戻した。 2001年3月に、中心メンバーであり、キーボードと作曲担当だったアレクサンドル・コズロフが心臓発作のため急死した。 死の1ヶ月前からセルゲイ・ボドロフ監督の映画「妹たち」のサウンドトラック制作をしていたが、グループは制作を中断し、 コズロフの葬儀後作品を完成させた。 ワジム・サモイロフは、「コズロフの代わりは探さない」と述べ、その後グループでは、新たなキーボード奏者を加えることなく活動を続けた。 2009年に活動の休止を発表し、「エピローグ」と名付けられたツアーをロシア、ベラルーシ、ラトヴィア、ドイツの44都市で4−12月まで敢行。 10年にアルバム「エピローグ」を発表。 2010年7月10日さよならコンサートを行い、グループは解散した。 |
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アガタ・クリスチ 「ホラー映画」第1部 (2006) 品番:なし \2,600 *アガタ・クリスチの2004年発表のアルバムの復刻盤。 アルバムの構想は2001年からあったが、それが作曲担当のコズロフの急死で止まっていた。 元々前作「マイン・カイフ」を受け継ぐ形の共通のコンセプトの下、第1部、第2部と分けて制作される計画だった。 それでコズロフの構想を残し、彼の録音も使い、しかし内容は一新される形で、04年にようやく完成した。 そのため第2部は制作されずに終わった。 アガタ・クリスチにしては珍しくヘビーな仕上がり。 「革命のために」、「ホラー映画」はヒット曲。 ほぼ全ての曲をグレプ・スモイロフが作曲している。 全13曲+ビデオクリップ+歌詞カード付。 |
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アガタ・クリスチ |
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アガタ・クリスチ 奇跡 (2004) 品番:なし \2,600 *アガタ・クリスチの1998年発表のアルバムの復刻盤。 98年9月発表の予定で98年夏に制作されたが、同年8月のロシア経済のデフォルトに直面して 発表が12月にずれ込んだことが躓きの始まりだった。 前作「嵐」よりは陰鬱な曲調ではなかったもののエレクトリックな傾向が強くなり、一時的ではあるが一部ファンが 離れる原因となった。 アガタ・クリスチらしい毒が薄れてはいるものの、音楽性の模索をしてもがくバンドの姿が垣間見られ、 倦怠感漂うアルバムになっている。 全14曲+ビデオクリップ付。 |
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アガタ・クリスチ
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