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店長の独り言 2014年8月号 | |||||||||||||||||||||
今月24日のウクライナ独立記念日のパレードを ユーチューブで見ました。 独立広場のバリケードはなくなっていて 軍事パレードが行われたようです。 昨年11月からのバリケードが 半年以上経ってようやく解除されたわけですけど ウクライナはますます混乱の様相です。 前回 この混乱の原因について キーワードとして挙げられるのは 経済問題と言語の問題だ と言いましたが もう一つ 東西の対立があると思います。 東西というのは 元々西欧意識の強かった西部ガリツィヤ地方と ロシア語系住民が多く ロシアとの関係が深い東部地域でしょう。 1991年にソ連が崩壊して ウクライナという国家が誕生したときに 「ソ連国民」だと思っていた人たちが ある日を境に 「ウクライナ国民」にさせられたわけですから さぞかし混乱もしただろうし 複雑な思い を持った人たちがいたのは想像できます。 単純に喜んだ人と 自分の意思に関係なく受け入れざるを得なかった人の間では 大きな隔たりがあったわけです。 それでも 20数年経って 現状が肯定的に考えられる条件にいる人はいいかもしれませんが 不満に思っている人には ずっとくすぶり続けていた別の思いがあったと思います。 クリミヤでの住民投票の結果は キエフでの政変後 これまで保たれていた東西のバランスが 一機に西側に傾き 潜在的に常にあった思いが表れたのではないでしょうか。 ソ連軍の空軍パイロットだった という人の話を聞いたことがあります。 ソ連が崩壊したとき ロシア軍に編入を希望したものの 母親がウクライナ人だったので 人数枠に入れなかった と言ってました。 それで 仕方なく ウクライナ軍に編入したと。 あの元パイロットだった人は 今どう考えているのか 聞いてみたいです。 ところで 今東部地域で内戦状態になっているのは 別の東西対立が原因になっていると思います。 2月にクリミア危機が訪れたとき 米ロ外相会談が度々報道されました。 ウクライナ問題を話し合うのに なぜウクライナ外相抜きで 米ロ外相だけで会談をするのか 違和感を覚えたものです。 (オバマ大統領がそんなにウクライナ国民のことを心配してくれているのなら アメリカがもっと無償の財政援助をしてくれればいいのに と思ってしまいます) 現在の西欧諸国とロシアの制裁合戦を見ていると ソ連崩壊で終わったと思っていた冷戦は 実は終わっていなかったんじゃないか と思えてなりません。 2014,8,31 |
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今のウクライナの混乱の原因について キーワードとして挙げられるのは 経済問題と言語の問題だと思います。 キエフに行ったことのある人ならば 誰でも知っていることですが ウクライナには 公的機関、公的場所では ウクライナ語表記をしなければならない とするウクライナ語が公用語であるという法律があって キエフの街中にある道路標識から 駅構内の掲示など すべてウクライナ語表記のみです。 映画館でのロシア語のみの映画上映も禁止されています。 かつてユーシェンコ元大統領は 「ウクライナ人なのにウクライナ語が話せないのはおかしい」 と言ってました。 ところが キエフの街中で一般に話されているのは ロシア語です。 このことは ロシア語系住民が多数を占めるウクライナ東部やクリミアでは 深刻な問題です。 余談になりますが ロシアがクリミアを編入した際 ウクライナのTV局がそのプーチン演説を放映したとして 右派セクターの議員がTV局に乗り込んできて TV局の代表を締め上げたのが映像になってニュース配信されていましたけれど 2人とも言い争いをロシア語でしていました。 話を戻します。 ヤヌコヴィッチ前大統領政権下で ロシア語系住民の多い地域では 公的にロシア語表記を認めようという 地域公用語法ができました。 ところが 2月に起きたクーデター後成立した暫定政府は 混乱に乗じて議会での審議もなく 真っ先にすぐさま地域公用語法を廃止したのです。 キエフでの動静をじっと見守っていたウクライナ東部やクリミアの住民たちは 危機感を持ったことでしょう。 このことが今起きている混乱と内戦状況のきっかけになったことは 間違いないと思われます。 3月に行われたクリミアの住民投票前に クリミアに住む女性が 「自分が話す言葉は自分で決めたい」 とTVインタビューに答えていたのが印象に残っています。 「ウクライナ人なのにウクライナ語が話せないのはおかしい」 とするキエフの政権と 「自分が話す言葉は自分で決めたい」 とする人たちとの間の不信は もうずいぶん前からあったものだろう と思われます。 それでも これまではなんとかバランスをとって 一つの国としてやってきたわけです。 例えば 大統領が東部の利益を代表していたら 議会は西部の利益を代表している方が与党 というように。 このバランスを崩したのは一体誰なのでしょうか。 2004年のオレンジ革命のとき 革命を支援していた人と国があったと思われます。 今年2月のクーデターのときも それを支援していた人と国があったと思われます。 2月18日 キエフの独立広場において 反政府デモ隊と治安部隊の間で 多くの犠牲者を出した大規模な衝突がありました。 このとき武力衝突の契機になったとされる 両陣営にスナイパーによる犠牲者が出ました。 一説によると 同一犯が両陣営を狙い撃ちした ともいいます。 映像が撮られていて 犯人は特定できる ということでした。 当時 暫定政府は調査する としていましたが 未だに犯人は特定されていません。 仮に犯人が 当時の政権側(ヤヌコヴィッチ前大統領)治安部隊員であったら 既に逮捕拘束されていることでしょう。 とすれば それはデモ隊側の人物かもしれないとは思いますが 一般人でないことは確かです。 あるいは第3国の特殊な任務を担っていた人物か・・・。 情報は錯綜しており 何が真実であるかはわかりません。 やっぱりわからないことだらけです。 2014,8,23 |
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今年2月にキエフで起きたクーデター。 3月ロシアによるクリミアの編入。 同月オデッサでの衝突。 4月から本格化したウクライナ東部での 内戦。 すべてのことが 予想を越えていたばかりでなく 予想を越えたスピードで進んでいます。 まず、クリミアで独立を問う住民投票が行われたとき 住民投票直後 直ちにロシアによる編入があるなんて予想した人は ほとんどいませんでした。 クリミアのロシア編入については ウクライナで列車に乗り合わせていたリヴィウ(リュヴォフ)在住のビジネスマンは 「プーチンは泥棒だ」と とても怒って話してくれました。 そして 私が日本人だと知ると 「クリール諸島(北方領土)は日本のものであることに賛成する」 とも言ってました。 ところが ロシアでこの話になると 話した人の全員が 「クリミアは元々ロシアのものだったのだから」 という理由で 概ねというのではなくて100% 編入には賛成で 「プーチンは正しいことをした」として支持をしていました。 このことは 日本に置き換えて考えるとわかりやすいと思うのですが もし 竹島や北方領土を 政府が仮に非合法な形であっても「取り戻した」場合 「その方法論には問題がある」と言う人はいるかもしれませんが そのこと自体を批判する人はいないのではないでしょうか。 ナショナリズムの行き着く先というのは そういうものだと思われます。 そして クリミアをロシア領からウクライナにその帰属を変更したフルシチョフについては 皆 批判的でした。 一番印象に残っているのは ロシアからベラルーシに行く列車で同じコンパートメントだったビジネスマンが 「クリミアの編入は歴史的正義だ」 と言っていたことです。 次にオデッサの衝突が起きたとき 多くの犠牲者が出ました。 このことについて ロシアでは多くの人が 我がことのように心を痛めていました。 日本ではあまり報道されていませんでしたが モスクワにあるウクライナ大使館前には 多くの人たちが 献花に訪れていました。 また 友人宅の食事会に招かれたときには 友人のお母さんが 「ウクライナの平和のために」 と言って祈りの言葉を皆に言っていたことが印象的でした。 ロシアの人たちにとっては ウクライナでの出来事は決して無関心ではなくて その逆であると思います。 ただ ウクライナでの報道と ロシアでの報道は 全く違っています。 ウクライナ東部でのある戦闘について ウクライナでは 「ロシアの仕業だ」と言い 一方 ロシアのTVでは 「ウクライナ政府の仕業」と言ってました。 その証拠としての映像が流され 「ウクライナではこの映像は流されていません」と。 ウクライナ政府発表のHPのウクライナ語の内容を ロシア語訳にして 「こんなにでたらめです」と。 先に紹介したリヴィウ在住のビジネスマンは 「ロシア政府はファシストだ」と批判をして 一方 キエフからモスクワに向かう列車で一緒だったロシア人の女性は 「キエフの臨時政府はファシストだ」 と言ってました。 一体いつから ロシアとウクライナは こんなに仲が悪くなってしまったのでしょうか。 わからないことばかりです。 2014,8,21 |
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今年も この日を無事に迎えることができました。 今日8月4日はソユーズアーツの設立記念日です。 これまでの歩みを HPのヒット数で見てみると以下の通り。 1年目のヒット数が6千強。 2年目が1万4千640。 3年目が2万4千480。 4年目が3万7千790。 5年目が5万2千54。 6年目が6万4千242。 7年目が7万5千502。 8年目が8万7千500。 そして 9年目の今年が9万6千867。 (2014年8月4日記録) 設立当初から 順調だったのは2008年夏まで でした。 2008年秋 リーマン・ショックがあって それなりにダメージがありました。 それを乗越えて 2010年 「第一次5ヶ年計画」を終了。 設立時当初に考えていた形は 一応完成しました。 取扱い商品の国別数が 11ヶ国になって さあ、ここから「第二次5ヶ年計画」の開始! という時 2011年3月 東日本大震災がありました。 例年 現地買い付けは4月に行っていますが 2011年は震災直後で 余震も続いていましたし 不安の中での出発となりました。 色々とあった9年です。 それでも何とか やってこれたのは ユーザーのみなさんのおかげだと 感謝しています。 ソユーズアーツはまだまだこれからのお店だ と思っています。 これからが肝心なのだ とも考えています。 今後とも どうぞよろしくお願いします。 2014,8,4 |