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店長の独り言 2005年9月号 | ご意見・ご感想 | ||||||||
美味しいものについて ロシアやウクライナ、そして東欧での食事の思い出は実に様々だ。 ロシアでは、カーシャ(雑穀の入った甘いお粥)、ペリメニ(餃子のロシア版)、サシースキー(ソーセージ)が思い出される。留学していた時、毎朝学生寮の 学食(スタローバヤ)に通い、カーシャを食べた。学食は寮と校舎の中間に位置していて、朝と昼だけ営業していた。朝、授業が始まる前には必ず朝食用に カーシャがあり、何種類もあるカーシャのメニューから毎朝違うカーシャが出された。麦のカーシャ、蕎麦のカーシャ、お米のカーシャ、どれもよかった。 実は当時、スタローバヤのメニューにある品目は限られていて、ほとんど選択肢がなかった。常時あるメニューとしては、朝のカーシャ以外にはミルク入り コーヒーがあった。これはたいていガラスのコップ入りで、予め砂糖がたっぷり入っていた。寒い冬の朝には、この甘い”コーヒー牛乳”もどきが美味しく感じ られたものである。 ペリメニとサシースキーは、食糧難のペレストロイカ時代によくお世話になった。ペリメニは冷凍ものが食料品店に出回っていて、比較的入手しやすかった のだ。お店のお姉さんと仲良くなると、「今日のペリメニは古いから買わない方がいいよ」などと教えてくれたものだ。ペリメニとサシースキー、どちらもお湯を 沸かして数分煮るだけだったので、小腹が空いた時にはとても重宝した。 一方、ルーマニアでは美味しい料理を食べた思い出が多い。ロールキャベツに似たサルマーレは美味しかった。中にお米や肉が入っていて料理人によって バリエーションがあるのがいい。 ママルイガ。これはトウモロコシで作る料理。チョルバはアラブ風のスープ。ミィティティは、ハンバーグに似た肉料理。今年の春、ウクライナ国境に近い町 スチャヴァからウクライナのキーエフ行きの夜行列車に乗ったとき、スチャヴァ・ノルド駅のカフェでテイクアウトのミィティティを注文した。コンパートメントの 中で冷めたミィティティ弁当を食べたが、思いがけず結構美味しかった。お腹が空いていたせいだったかもしれないが、ルーマニアにもテイクアウトのサービ スが、それもスチャヴァのような田舎町に現れたことに感激してしまったことも関係しているだろう。 日本ではたいていの外国料理が食べられる。しかし、現地で食べた料理のような美味しさは味わえない。なにかが違うのだ。外国料理が日本人好みに アレンジしてあることや、食材の違いがその理由に挙げられるだろう。でも、もっと大きな理由は全く別なところにあるように思う。 ちょっと極端な例かもしれないが、宇宙飛行士の野口さんが「宇宙では味覚が鈍くなり、食事が地上で食べるよりぼんやりした味に感じられた」と言っている。 ”美味しい”と思うのは、実は環境によるものかもしれない。 2005,09,30 安全について ロシアやウクライナ、そして東欧の治安事情はそれぞれが独自の問題を抱えている。 ロシアの場合、テロを警戒してか重要な場所や行事がある時には警官の姿をよく見かける。これは日本も同じこと。日本と違うのは、「えっ、こんなところに!」 と思わず叫びたくなるような場所にX線のセキュリティー・チェックがあることだ。例えば、モスクワのバザールや市場の入り口にそれはある。そばには 騎馬警官が巡回をしていたりするのだ。また、普通のレストランの入り口でもX線のセキュリティー・チェックを受けることがある。そんな時、「モスクワって 危ないんだ」と認識する。 モスクワには、テロ以外にもネオナチや物取りがいるから要注意だ。夜、メトロ(地下鉄)の車両の中でスキンヘッドの兄ちゃんが2・3人いたりしたら、すぐに 逃げなければならない。 ロシアに比べるとウクライナはずっと治安がいい。夜暗くなってからでもおばあちゃんと子供が散歩をしている光景を目にする。モスクワではそんなのは 見たことがない。そんなウクライナでも、メトロの駅構内で警官にパスポートコントロールを受けたことがある。つまり警官が駅のホームを巡回しているわけだ。 ロシアよりは多民族ではないから過度の緊張はないが、それでも”最低限のこと”は気をつけなければならない。 それはポーランド、チェコ、ハンガリーについても同じ。「地球の歩き方」のポーランド編に、「ワルシャワ中央駅が危ない」とあるが、最近は警官がかなり 頻繁に巡回していて改善されている。チェコのプラハ本駅も、2年前は朝から酔っ払いがかなりいて雰囲気が悪かったものの、今春には随分改善されて いた。 さて、最後にルーマニアの治安状況はどうなのだろう。ルーマニアにはジプシーがいて、至る所で子供の物乞い攻撃に遭う。近年電車代が高くなって、 「長距離列車内でジプシーの物乞いに遭うことはないよ」と友人から聞いて安心していたら、今春ブカレスト-スチャバの移動中危うくジプシーの子供たちに 襲われそうになった。 幸い同室の紳士が追い払ってくれたが、彼がいなかったらパニックになって危ないところだったに違いない。一般的にジプシーは武器を持っていないから それほど危険ではないものの、一瞬のパニック状態を襲うという手法を使うから要注意だ。 でも、本当に危ないのはジプシーの物乞いではない。偽警官や睡眠薬強盗もいるということだから、安易に英語で話しかけたりしてくる人には気をつけた方が よい。 向こうから近づいてくるということは、何らかの目的をもってのことだ。社会主義政権崩壊後の頃のように、”なんでもよいから外国人と接してみたい”という 友好の時代は終わった。よくないことだけれど、知らない人とはそんなに簡単には仲良くはなれないのだ。大体言葉だってよくわからないのだから。 ルーマニアのタクシー運転手でいい人に会ったことがない。どうにかしてこちらのお金を取ろうとしているようにしか思えないところがある。と言ってルーマニア 人全体が悪いとはけして思わない。 結局、安全は自分の問題なのであって、自分を守る力と人を見る力になるのではないだろうか。日本にいて”まだ安全だなぁ”と思うのは、自分の国だから 様々なレベルでの情報があり、経験から色々な仕組みを知っており、何より言葉が通じるからだろう。一方外国では、その国の情報、言葉が自分を守る武器に なることは当然のことだ。それらが余りない場合、冒険や軽はずみな行動をしなければよいのである。 でも、こんなことを思うようになったのは、年をとったのかなぁ。 2005,09,27 モスクワのドル交換の不思議 ロシアやウクライナ、そして東欧で両替をすることは、今ではけして難しい話ではない。ドルかユーロを持っていれば、銀行ではなくて市内に点在 する両替所で簡単にできる。今でも時折パスポートの提示を求められることがあるが、たいていは外貨の紙幣を窓口で差し出せばすぐに現地通貨が 入手できる仕組みだ。でも、その仕組みが出来るにはそれなりの時間を要した。 ソ連時代に留学していた時には、まだ自由にアパートを借りることは許されておらず、留学生は皆大学の寮に住まなければならなかった。そしてこの 寮の中に両替をしてくれる留学生がいたのだ。多くはアフリカから来て何年も住んでいる留学生で、両替を生業とする学生が各大学の寮に1人は必ず いたらしい。 当時はルーブルの公式対ドルレートが実勢を全く反映しておらず、銀行で両替をする外国人は観光客を除くと皆無だったと言ってもよい。と言って街中 で闇両替の声をかけてくるロシア人には怪しい輩がいて危険でもあった。 でも、寮の中は違った。ルーブルが必要な時には彼の部屋へ行って、ただおもむろに外貨を出せばいいのである。極めて安全で確実で便利だ。ある時、 輪ゴムで留めてある紙幣の束を受取って正確に数えることもしないで部屋に戻ったら、額面の違う紙幣が混じっていたことがあった。もちろん、損をしていた のである。それで恐る々々両替屋学生の部屋に行って事情を話すと、「だからいつもよく数えろと(両替仲間に)言ってるのだけど、悪かったな」と言って すぐに取り替えてくれた。きっとそんなトラブルは日常茶飯事だったのだろう。でも、なんといい人なんだろう、と見直してしまった。 ルーマニアでも似たようなことがあった。チャウシェスク政権が倒れた後の時代のことだが、ある町に長くいた時、街中で声をかけてきた両替屋で顔なじみ になった青年がいた。彼は両替所近辺に行けばたいていたむろしていて会えたが、いつもその”職場”に”出勤”しているわけではないから会えないことも もちろんあった。そうこうする内にこちらのことを信用したのか、「電話番号を教えてやる」と提案してきて、「でも、電話におばあちゃんが出るかもしれない から、両替の話はしないでくれ」と言われた。彼も普通の人だったのだろう。今でもそう思う。 しかし、これらの両替屋は結構危ない仕事で、ルーマニアの彼はいつもびくびくしていたし、モスクワのある学生寮にいた両替屋学生は、寮の窓から落と されて殺害されたと後に聞いた。 時代はすっかり変わってしまった。もう街中で闇両替の声をかけられることもほとんどない。だって、そこら中に両替所があって、すぐに両替ができるのに 闇両替をしようなどとは誰も思わないし、レートがバカみたいにいいなんておかしいに決まっているからだ。 しかし、そんな時代になっても、モスクワの両替所だけはヘンなところがある。ウクライナでも東欧でも紙幣ならば1ドルでも両替をしてくれる。これは当り 前の話。でも、モスクワは違うのだ。1ドル紙幣を出した時には、「帰れ」と怒鳴られるか完全に無視されることだろう。彼らは50ドル以上の高額紙幣しか 受取らない。仮に20ドル紙幣を受取る両替所があったとしても、その代わりにと言うかレートはよくない。 「なぜだ?」と怒ってみても仕方がない。ロシアでは今あることを受け入れていくことが最善なのだ。偽札を警戒しているからなのか、と言うのも違う。偽1ドル 紙幣など聞いたことがない。 理由はあるかもしれない。でも、それは聞いても仕方ないことだ。そんなバカ々々しい理由など聞きたくもない。結局、1ドル紙幣がモスクワでは役に立た ないことには代わりないからだ。 2005,09,24 ロシア・ウクライナ、東欧のビザ 日本のパスポートを持っている人で、現在観光ビザを必要とする国は限られている。その内の1つがロシアだ。 ビザがあると入国手続きが面倒になる。あらかじめホテルを予約して、バウチャーをもらうか、あるいは招待状を送ってもらわなければビザは発給して もらえない。そのため、週末に思いつきで、”そうだ、モスクワに行こう”という具合に行ってきたりはできないのだ。 昨今のロシアにおける治安事情を考えると、ビザ発給に慎重な制度を敷いているロシアの言い分もわからないでないが、それでもソ連時代の旧態を 引きずっているように思える。最近、入国時の外貨申告など規制が緩められた部分もあるが、それでもビザは未だに”ロシア行き”の重い足かせと なっているのは確かだ。 一方、ウクライナ、東欧は全く違う道を行く。ウクライナのビザは今年の8月から廃止になった。ロシアよりも一歩も二歩も前に行ってしまった感がある。 外貨申告用用紙などソ連時代のものとそっくりのものをそのまま使用していた(ロシアも同じだが)ことを考えると、随分思い切ったものだと感心せずには いられない。 東ヨーロッパ諸国、バルト3国はもっと早くビザがなくなっている。大体、彼らはもうEUなのだから当り前と言えば当たり前だ。 ビザの有無は、その国が外に対して開かれているか否かのバロメータになる。ロシアは以前と比べると少しずつ変化してきているが、それでも未だに 不思議な国のままだ。その不思議な国がビザを廃止したときに、初めて本当の意味で”普通の国”になるのだろう。 でも、ロシアが”普通の国”になってしまったら、それでもロシアは”おもしろい”国でい続けられるだろうか。 週末に気分転換代わりにモスクワに行って、是非見てみたいものである。 2005,09,20 ロシア・ウクライナ、東欧における郵便事情 日本では国際郵便を出すのに何の苦労もない。どこの郵便局からでも海外に手紙を出したり、小包を出せる。でも、旧社会主義諸国の場合、 そうは簡単にはいかない。手紙は大丈夫だが、小包となると話は別。 社会主義時代の話だが、海外に手紙は簡単に書けても、荷物を送ることには厳しい制限があった。それも国際郵便が送れる郵便局は限られていて 日本のようにどこの郵便局からでも送れるわけではなかった。まだ社会主義時代であるソ連に留学していた頃、帰国前に衣類を先に日本に送っておこう と思ったら、すべてクリーニングしてその証明書がないとダメだと言われて諦めた。どうしてクリーニングが必要なのかよくわからなかったし、だいたい その証明書とやらは一体どこで発行してくれるのかもわからなかった。 何かと制限があって簡単に国際小包が送れない仕組みだったことは確かだ。外国人とその国の国民の間で制限の相違もあったように思う。 その後時代は変わった。社会主義は昔の話。でも、人や制度はそんなに簡単には変わらない。国際郵便を取り扱う郵便局が限られているのは今でも同じ。 衣類はクリーニングしてなくても送れるようになったが、マトリョーシカは送れないとか、ロシア国旗もダメだと言われた。何故ダメなのか全然わからない のは今も全く変わらない。骨董品や希少本のように貴重な文化財なら規制するのもわかるのだが、ただの美術書でもダメな場合がある。これは郵便局員が 過剰に自主規制をしているためで、人によって言うこともまちまちであることがよくある。 ルーマニアではちょっと前まで、小包を送る場合は白い布を自分で用意して、箱をサンタクロースのプレゼントみたいに縫い合わせる必要があった。 郵便局員は中身のチェックをした後、その白い布に包まれた箱を紐で封をする。最後に紐の結び目を鉛の玉の穴に通してからその玉を潰して絶対に 開けられないようにしてくれる。後にも先にもあんなに裁縫仕事をしたのは実に小学校の家庭科の時間以来だった。 ウクライナでは今でも郵便局にミシンが置いてあって、郵便局員が器用に白い布で梱包している。これは今でもナゾのままだ。 また、ロシア・ウクライナ、ルーマニアでは、梱包は郵便局員の専権事項だ。と言うと体裁はいいが、要は検閲をされているわけだ。自分で箱を用意して 詰めていっても、何故か「この方がいい」と言われ詰め直される。だから、発送する時には、小包の封をして郵便局へ行ってはいけない。検閲をし易いように 中の内容物が見られるようにしておかなければダメだ。 こうして様々な制限は今も以前とは違う形で脈々と残っている。その分、ロシア・ウクライナは郵便料金が日本と比べると安いので、仕方ないかと諦める ことにした。 でも、ルーマニアは違う。2007年のEU入りを意識してかここ数年郵便料金の国際化が進んでいる。社会主義時代同様に、国民に海外への発送を制限 するためかもしれない。サービスは昔と変わらず悪いのに料金だけ上がることには納得がいかない。 そこへいくと2004年にEU入りを果たしたポーランド、チェコ、ハンガリーは違う。ブタペストで小包を送ろうと思い、箱の蓋を閉めないで郵便局へ行ったら、 逆に「何故箱を封してこないのだ」と言われてしまった。おまけにこちらが困っているのを見るや否や、局員が備え付けのテープでぐるぐる封をしてくれる ではないか。「おお、これこそが自由主義というものだ。料金が高くても(日本よりまだ安い)納得がいくというものだ」と涙が出そうになってしまった。 2007年、果たしてブカレストの郵便局でも同じ光景が見られるのだろうか。不安を覚える。 2005,09,17 ロシア・ウクライナにおけるポップスと政治 日本では衆議院選挙が終わったばかりだが、ロシアやウクライナでは最近、日本とは全く違い選挙でポップス歌手が登場する場面に出くわす。 ロシアの著名な映画監督ニキータ・ミハルコフのように文化人で積極的に政治にかかわる人もいる。それはポップス界でも同じだ。 一番新しい事例としては2004年冬のウクライナのオレンジ革命が挙げられる。大統領選の決戦投票でヤヌコヴィッチ陣営による不正スキャンダルが 政治・社会問題化。首都キーエフにはユーシェンコを支持・応援する人たちが全国からどんどん押せ寄せ、さながら革命前夜の様相を呈した。 この動きに呼応したのがウクライナを代表するアーチストたちだ。 キーエフの中心地”独立広場”は、毎夜著名歌手たちのコンサート会場と化した。それもユーシェンコ陣営を支持・応援する歌を歌う。日本で言えば スマップや浜崎あゆみ、福山雅治が毎夜街頭コンサートをやっているような感じ。 そして、コンサートで盛り上がったところでユーシェンコ候補が満を持して登場して演説をする。その内にいつの間にかユーシェンコ応援歌を口づさむ、 という構図が出来上がった。このときの模様を伝えるCDがユーシェンコ選挙対策本部から出され、今も入手可能だ。 一体誰が考えたのかわからないが、ポップスが政治にまともに巻き込まれている。同じようなことはロシアでもあった。ちょっと古い話になるがが 1996年夏の大統領選でもエリツィン候補がモスクワの赤の広場の近くで同様のロック・コンサートを開いた。マシーナ・ヴレーメニなどの著名な グループやアーチストが次々に登場して大いに盛り上がったものだ。このときエリツィン氏がロックに合わせて”華麗な”ステップを披露して話題に なった。 ロシアやウクライナでは、アーチストが特定の政治勢力への支持を表明しても驚くようなことではない。それは一般の人に支持する候補を尋ねると 隠すことなく明確に答えてもらえることと関係しているように思う。逆に、政治に関する意見を明らかにしないのは、きっととても日本的なことなのだろう。 2005,09,12 ウクライナ・ポップスの存在感 ”ウクライナ・ポップス”と聞いて、オケアン・エレジーやタチヤーナ・オフシエンコを思い浮かべる人は稀だろう。「そんなのあるの?」というのが正直な ところではないだろうか。 実際、ウクライナ出身者でロシアン・ポップス界で活躍しているアーチストは少なくない。今挙げたオケアンやオフシエンコ、バイア・グラ、ヴョールカ・ セルジューチカなどがそうである。ソ連時代から市場としてはロシアの方が大きいから、勢いモスクワに目が向きがちなのは仕方ない。 実はウクライナはアーチストの隠れた宝庫だ。だから、ロシアにアーチスト供給ができる。ウクライナから才能が流失してしまうのは惜しいが、ロシアで 活躍をすればまだウクライナでも目にすることができるのだ。 それでもずっとウクライナでウクライナ語で歌っている歌手もいる。ウクライナ民謡を題材にして歌っているのがタイシヤ・ポヴァリー。ポップスでは イリーナ・ビリックがいる。アーシア・アハット、アニー・ロラック、エヴゲーニヤ・ヴラーソワなどもそうである。ウクライナ語で歌うことは、ウクライナ・ ポップスにとっては重要なことだ。 最近では、ルスラナが2004年ユーロヴィジョンでグランプリを獲得するなど若い世代でウクライナの台頭が見られるのは嬉しい話である。ルスラナの 成功は、ウクライナの民俗的な要素をポップスに取り入れたところにあった。けして西を向いた小手先のものでないのがいい。 ウクライナはまだまだ若い国だから、国の基盤が安定すればもっともっと新しい才能が出てくるに違いない。ロシアでもポーランドでもない存在感を もつ力を早く見たいものである。 2005,09,09 ルーマニア・ポップスの魅力 「ルーマニアにもポップスがある」ということを知っている人はまだ少ないと思われる。だいたいどこの国に行ってもそれぞれの民族の伝統音楽があるの だから、それぞれのポップス音楽があるのは当たり前の話だけれど、実際に触れる機会がなければそんな”当たり前”のこともわからないのが実情だろう。 かく言う自分自身だってルーマニア音楽に触れたのは最近の話。ジプシー音楽があるのは知っていたが、マレーネ音楽は知らなかった。 マレーネ音楽とは、ジプシー音楽の流れを汲む音楽で、レストランで催される結婚式などのパーティーで演奏され庶民生活に根付いている。人々はマネーレ を歌いそして踊るのが好きだ。 ラジオでも頻繁に流れているし、市場などでラジカセで誰かしらがかけていたりで、ルーマニアに行けばどこかで出会える音楽でもある。その特徴は陽気で 明るい。日本で言えば民謡に当る。 最近では、このマネーレをポップス調にアレンジしたマネーレ・ポップスが現れた。これがなかなか面白い。 ところで、ルーマニアには何故かセックス・シンボルなるポップス歌手が多いように思う。実際に”セックス・シンボル”という名前のグループまで登場した。 日本と違ってルーマニアの女性歌手は露出度が高く、驚かされることがしばしば。雑誌などで女性歌手のヌードが紹介されたりするのも珍しくはない。 そんな開放的な民族性を背景にして、ルーマニア・ポップスはマネーレ音楽同様明るくて陽気。聞き始めの頃は、音の作りがチープに思えたものだ。 でも、それは聞き慣れないことによるもので、音楽性によるものではないことにすぐに気づいた。 ルーマニア・ポップスにはマネーレの伝統やラテンの明るさという特徴の他にもう一つ重要な要素がある。それは兄弟国のモルドヴァの存在だ。 ルーマニアは元々周辺をスラブ国家に囲まれたラテンの国で、モルドヴァとは兄弟国ながら、ソ連支配のために長く分断されてきた。 ルーマニアでチャウチェスク政権が崩壊した頃はまだモルドヴァの方が経済的に恵まれていた。それがソ連崩壊後独立してみると、モルドヴァ経済は崩壊し、 今ではルーマニア経済の方が好調でEU加入も間近。それでモルドヴァ人は勢いルーマニアに出稼ぎにやってくる。その流れの中で、オデッサ出身の アンア・レスコやキシナウ出身のオゾンがルーマニアで活躍する現象が起きている。彼らはロシア語圏の生まれであることを生かし、歌詞の中にロシア語を 入れたり、モルドヴァ訛りのルーマニア語で歌う。それをルーマニア人は面白く感じて、受けているのだ。 こんな風に書くとモルドヴァとルーマニアに関心が強いように思われるかもしれないが、最初からそうだったわけではない。 モルドヴァ語の歌を初めて聴いたのは1985年にソ連旅行をした時だった。当時モルドヴァ共和国出身のソフィア・ロタルが、モルドヴァ語の曲「メランコリー」を ソ連でヒットさせていた。当時はロシア語もろくに知らなかったからロシア語の曲だとばかり思って、歌詞を覚えたものだ。 モスクワからレニングラードまで汽車で移動したときにたまたま同じコンパートメントにいたルーマニア人の留学生が、ラジオから流れるこの曲を聴いていて、 「これはルーマニアの歌だ」と言った。その時は彼の言っている意味が全然わからなかった。その後、90年代にルーマニアに行った折、知り合った女の子が この曲を歌っているのを見て愕然とした。色々なことが一度に氷解していく瞬間だった。 2005,09,06 ロシアン・ポップスは世界の言葉? 昔「マクドナルドは何語?」というフレーズが流行ったことがある。その答えは「マクドナルドは世界の言葉」というものだった。9月1日付けの朝日新聞 夕刊に、ロシアン・ポップスがロンドンにあるロシア人の社交の場であるクラブで流行っているという記事があった。ロンドンにはロシアの富裕層や留学生、 ウクライナやエストニア出身者、はたまたチェチェン紛争のために難民となった人など約30万人のロシア語を話す人たちがいるということだ。そういえば ロシア若手bPのアルスーがロンドンに留学していたのも偶然ではない。彼女のお父さんは有名な国会議員だからだ。 世界中のロシア人コミュニティーがあるところでは、ロシアン・ポップスが流行っているのかもしれない。その意味では、今や「ロシアン・ポップスは世界の言葉」 かもしれない、と思ってしまう。 ところで、ルーマニア・ポップスのオゾンが今日本を席巻している。オゾンが世界的な注目を集めたのは、一昨年ヨーロッパでブレークしたのが始まり。 そして、昨年、元々旧ソ連のモルドヴァ出身のためか、モルドヴァ語で歌っているもののモスクワやウクライナのキーエフでも流行っていた。遅ればせながら、 このブレークの勢いが今年やっと日本にまで届いた。実に2年のタイムラグがある。 それで、オゾンが「ミュージック・ステーション」に出演したときには、皮肉にも3人いたメンバーは2人だけになってしまっていた。着メロやスマップの「スマスマ」 で取り上げられてのブレークや、今大手CDショップで入手できるものはアメリカ盤であることはいかにも日本的だ。 それはつまり、日本にはロシア人コミュニティーがない、ということかもしれない。 2005,09,02 |