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店長の独り言 2005年10月号 |
佐伯祐三展を見た 今月23日の日曜日に佐伯祐三展を見てきた。その日はちょうど最終日であったが、会場が練馬だったせいか上野や国立近代美術館での展示会の ような人ごみはなく、比較的ゆっくり時間をかけて見ることができてよかった。 佐伯祐三展は、学生時代にも国立近代美術館で見たことがある。そのため大抵の絵は見覚えのあるものばかり。しかし、その印象は全く違った。 自分だけが年を重ねたということだろうか。 何十年か前の展示会でもポスターは確か「郵便配達夫」であった。今回もポスターに同じ絵が使われいるのを見て、一瞬タイムスリップしたような錯覚を 覚えた。 今回久しぶりに佐伯祐三の絵を見て気づいたのだが、何点かの絵にはキャンパスの隅に日付とサインらしきものが書き込んであるのだ。もちろん、 書き込みがないものもある。それは、恐らく完成していないからだろうと思われる。 彼の最晩年の絵として、先の「郵便配達夫」の他、「ロシアの少女」、「黄色いレストラン」が展示してあった。「黄色いレストラン」は完成間近だったのか もしれない。一方、「ロシアの少女」は完成には程遠いものだ。しかし、その絵は強い印象を残す。 佐伯祐三が描いた絵だからそう思うのかもしれない。ロシア人には珍しい赤毛の少女で、赤いシャツを着て、キレイな柄物のジャケットを羽織っている。 背景は鮮やかな黄色だ。 この絵は、1928年に描かれたものだから、実に77年の時が経ていることになる。モデルの少女は当時15歳ぐらいだったとしても、今も生きていると すると百歳近い年だ。ロシア革命後パリに亡命してきた所謂”白系ロシア人”がモデルらしく、少女の母親は佐伯の絵を見て、「悪いときには悪いことが 続くものだ」と嘆いたとされる。 ”少女”が、自分をモデルにした佐伯の絵が日本の展示会に出品されていることを知ったら何を思うのだろうか。 2005,10,28 ルーマニアのマネーレCDよ、お前もか! ルーマニアのマネーレ音楽をご存知だろうか。マレーネ音楽とはジプシー音楽の流れを汲む音楽で、ルーマニアではレストランで催されるパーティー などで演奏され庶民生活に根付いている。マネーレなしでは重要な行事は行えないのだ。 そのマネーレがネット販売を始めてから少しずつ売れている。以前S社で委託販売していたときには、マネーレは鳴かず飛ばずで、ルーマニアCDと言えば ポップスだった。それが今はその地位が逆転している。 マネーレの第一人者と言えば、言わずと知れたアドリアン・コピールル・ミヌーネだ。アドリアンはルーマニア内外で著名なアーチストで、トニー・ガトリフ監督 の仏映画「ガッジョ・ディーロ」の音楽を担当していたのでご存知の方も多いかと思われる。ニコライ・グーツァというライバルがいるが、アドリアンには勝てない ようだ。 しかし、そのアドリアンのソロ・アルバムが最近入手困難になってしまった。入荷するのはオムニバス盤ばかりだ。理由はよくわからない。また、入手が可能だ としても、そのほとんどがCD−Rという状態だ。一体どうしてしまったのだろう。ルーマニア本国でも売れまくって品切れになっているのだろうか。 元々ルーマニアCDにCD−Rはなかった。ロシア・ウクライナCDと違い問題がなくて安心していた矢先だけに、ちょっとショックを受けている。 事情に詳しい方がいらっしゃれば、是非お話を伺いたいものである。 2005,10,25 ブルガリア人の”Yes” ブルガリアに行ったことのある人はよくご存知だろうが、ブルガリア人は”Yes”と言うときには首を横に振り、”No”のときには首を縦に振る。 この話は80年代にブルガリアを旅した知人から聞いて知っていたのだが、実際にブルガリア人が同意をしながら首を横に振っているのを見たときには 大いに戸惑ったものだ。路線バスに乗ろうとして運転手に行き先を尋ねると、「そうだ」と答えながらも、首は横に振っているではないか。一体どっち なんだ、と思ってしまう。 何故急にブルガリアに話が飛んでしまったのかというと、今月8日にも登場した五木寛之の「異国の街角で」という本の中で、ブルガリアの首都ソフィア に行ったときのことが「バルカンの星の下で」という章で紹介されていたからだ。 この中で氏は、パリからソフィアに着いた夜にレストランでウエイターにキャビアを注文するシーンについて書いている。その中で次のような一節が目に 留まった。 -巨人のようなウエイターに、キャビアを頼むと、彼が首を振って言った。 「それは高いよ」 「いくらかな」 「二レフもするんだ」 -私たちは彼の制止をふり切ってキャビアを取った。 五木寛之のような博学で色々なところへ行っている人がブルガリア人の同意のジェスチャーについて知らなかったとは考えにくいが、ウエイターが 「頷いた」のではなくて「首をふった」のであれば、それは同意を示していて、それでもなお且つ「いいねぇ。でも高いゼ」という感じで言ったと思われる。 彼は決して”制止”などしていなかったことがよくわかる。 ところで、ブルガリアにもポップスがあることをご存知だろうか。十年前にブルガリアを旅して、兎に角く「ブルガリアン・ボイス」なるものを探した ことがあった。見つかったのはソフィアにある土産物を扱うショップで購入したCD1枚きりだった。街角で尋ねると、日本でも流行った頃にやはり ブルガリア本国でも流行したが今は下火になっている、ということだった。その代わりにブルガリアン・ポップスはいっぱい見つけた。アラビック風で なかなか素敵だ。ブルガリアン・ボイスは確かに凄いが、ブルガリアの音楽は当然けしてそれだけではない。 あれから十年。随分ご無沙汰なので、今年の春にルーマニアまで行った折に寄ってみようかな、という気になった。と言うのは、昔と違ってビザが 必要ないので、その気になればルーマニア側から日帰りだって可能である。 ビザが義務付けられていた頃は、東欧諸国の中でもブルガリアのビザは取りにくくて、初めて入国できたときには、思わず「ウラー!」と叫んでしまった ものだ。全く時代は変わってしまった。 残念ながら今春は時間がなくて入国できなかった。しかし、次回チャンスがあれば是非トライをして、ソフィアやルセのCDショップを覗いてみたいもの である。 2005,10,22 ロシアCDにおけるライセンス・シールの不思議 ロシアン・ポップスファンはよくご存知だろうが、ロシアのCDにはそれが正規品であることを示す切手大のシールがCDジャケットに貼ってある。 最近CDを購入のお客さんからその”シール”がないという問い合わせのメールをいただいた。自分では気づかなかったが、問い合わせを受けてから 在庫分を調べてみたら確かにシールのないものがあった。 シールには「検査証」と書かれているのもや「ミュージック・トレード」、「ライセンス品」などとの記述があり、シールの偽造防止用のホログラムが入って いるのが特徴だ。 しかし、シールがあれば安心というわけにはいかない。ちょっと前になるが、モスクワのスタッフがまだ仕事の内容を十分に理解していなかった頃、 CD−Rばかりを50枚ほど送ってきたことがあった。もちろん、商品にはできない正真正銘のCD−R盤だったのだが、すべてにライセンスものである ことを証明するシールが貼られていた。 ここで先のシールのないCDに話を戻そう。何故シールのないCDが正規盤であるのか?それはウクライナで購入したロシア盤だからだ。ウクライナ のCDショップで売られているCDにはすべて万引き防止用の”LE”と書かれたバーコードタグが付いている。そして正規品であることを示すシールは CDの裏側に貼ってあることはあっても、ジャケットにはない。 シールが有名無実化していることは確かだし、ロシアとウクライナではシステムが違うことも確かだ。8月にもこの問題に触れたが、わかっていることは、 ロシア・ウクライナではライセンスが守られていないということだけである。 皆さんはどう考えますか? 2005,10,17 カバルジノ・バルカル共和国の首都ナリチク治安施設襲撃事件 インタファクス通信によるロシア南部カバルジノ・バルカル共和国の首都ナリチクで起きた治安施設襲撃事件報道が昨日の深夜から伝えられている。 しかし、それはインターネットの中だけの話で、日本のTVはもっぱら楽天によるTBSの株大量取得の話ばかり。まるでナリチクのニュースは、死者が 100人を越えているのに、ロシアの一国内問題に過ぎないと言いたげである。 去年は9月に北オセチア共和国ベスランの学校占拠事件で、多数の子供を含む約330人が特殊部隊突入の際に死亡した。2002年10月にはモスクワの 劇場占拠事件で人質が約130人死亡している。 毎年秋の恒例行事にように続くロシアとチェチェンの戦争は行き着く先が見えない。でも、所詮は日本から遠く離れた土地での出来事だ。それはパレスチナ で毎日起きていることや、アフガニスタンとイランでも戦闘状態が継続中であることに余り関心が払われないことと同じである。 でも、実はそんなに遠い世界の話ではない。インドネシアはイスラム過激派のテロの格好の標的になっている。いつ東京に飛び火してもおかしくない。 ソ連崩壊後のロシア人はナショナリズムに傾倒する傾向にある。ごくごく普通のロシアの友人すらチェチェン人の悪口を言う。でも、チェチェンを知る日本人 の意見は正反対だ。 戦争が終わったらグローズヌイに行ってみたいとモスクワにいたときに思ったが、あれから既に9年が経つ。グローズヌイへは全く行けそうにもない、と今は 東京で思っている。 2005,10,15 モスクワの回転寿司には気をつけろ! 今日横浜に行く機会があって、中華街で遅い昼食を食べた。いつもは適当に店を選ぶのだが、以前来たときに街角で手にした回転飲茶のチラシが気に なっていたので挑戦してみることにした。 余りオシャレとは言えない階段を上ると、店内は活気に満ちていた。中華のオープン厨房が回転レーンの真ん中にあって、フライパンを握る料理人、盛り付け をする係り、マイクを持って注文をさばくマネージャーという具合に役割分担されている。最初は訳がわからずに同じもが何度も回っている回転レーンばかり を見ていたが、隣の客が注文票になにやら書き込んでいるのを見ていて、注文を自分で出さないといけないのだということがおぼろげに理解できた。中華は 出来たてが命なわけだから、どんどん注文を出さないといけないのだ。 恐る々々餃子、コーンスープ、坦々麺を注文した。注文が入るとある程度の人数分がたまったところで一気に作る。そうして注文分以上に出来上がった皿が 回転レーンにようやく乗っかるの仕組みのようである。結局注文してから出来上がるまでは、お腹を減らしたまま回転するレーンの冷めた中華の惣菜を見て いるはめに。 回転寿司ならもっと待たなくてすむのになぁ、などと考えていたら、モスクワで入った回転寿司の店のことが思い出された。 もう2年も前のことになるが、モスクワ在住の友人が20$の食べ放題の回転寿司があると言うので一緒に行ってみた。 入り口でX線のセキュリティーチェックがあるものものしい店だが、中に入るととてもモダンでオシャレな内装だった。食べ放題ではないコースも選べるようで、 回転レーンから離れた窓辺のテーブルからはモスクワ川が望め、ロシア人カップルが箸を上手に使いこなして談笑している。 しかし、感心したのはここまで。料理人は、一見髪が黒くて日本人風なのだが、実はコーカサス系や中央アジア系の職人で、食べ放題の回転レーンには サーモンばかり。ときどきイクラが回っているものの、最後尾にいたわれわれのところまではほとんど残っておらず、サーモンに次ぐサーモンの行列。 それで、別のものが食べたいなぁと思うと、それは別料金。それで仕方なくサーモン寿司を思いっきり頬張り過ぎて、店を出たときにはサーモンが嫌いに なっていた。 そんなことを思い出しながら2回目の注文票を書いた。海老チリ、酢豚、鳥のから揚げ。そういえばこの店も食べ放題にすることが出来て、2050円だとか。 ひょっとしたらモスクワの回転寿司も食べ放題ではない注文コースだったら美味しかったのかもしれないが、それはもう確かめようがない。。 今モスクワでは空前の寿司ブーム。街を行くとすし屋の看板が至るところにある。ロシア人の友人が寿司レストランに行ったが、本物を食べたことがない ので美味しいのかどうかわからないので困った、と話していた。日本人シェフがいるお寿司屋さんは限られている。 皆さんもモスクワのすし屋には気をつけて! 2005,10,10 最近読んだ本から 最近五木寛之の「異国の街角で」を読んでいたら、比喩として「ひどく心が通いあっていたのに、なぜか理由がしれなぬままに不意に目の前から去って 行った友人の記憶」というくだりがあって、そこで立ち止まってしまった。 以前中国を旅行していたときに北京の安ホテルで知り合った日本人の青年のことが思い出されたのだ。彼は旅行者で、旅を趣味にしているような人だった。 それで旅に関する言葉は、中国語を始めエジプト方言のアラビア語も話せると言っていた。それもすべて独学で、兎に角旅をするためだけに外国語を勉強 するという話だった。そう言えば彼は最初中国語で話しかけてきた。その語学力がどのくらいのものだったかは今では検証のしようがないが、旅仲間という こともあって、お互いが経験した旅先でのエピソードを披露しあって楽しかった。 北京で知り合ってから、彼はときどき旅先から絵葉書をくれた。そして、たまたま私がモスクワにいたときに、彼がロシアにやって来たことがある。モスクワに しては暑い夏の年だった。 会って早々、エストニアへ行くためにチケットを買うと言うので一緒に駅へ行くと、他言語同様ロシアも独学をしていたらしく紙にメモ書きしたフレーズを窓口で 言うのだが、これが全然通じてなかった。彼が1人では切符は買えなかったかもしれない。 宿泊先探しも手伝ったりして数日を過ごした。ロシア語は難しいと言っていたのが印象的だ。 彼がモスクワを出発してからターリンから絵葉書が届いた。「ここはモスクワと違っていい。旅をエンジョイしている」と言うような内容だったと思う。モスクワが 余り居心地よくなかったのかもしれない。それでもモスクワにいたときに、いつかロシア全土を旅してみたいと話していた。彼は中国語ができるから、一緒に モスクワから北京までシルクロードを旅するとおもしろいだろうね、と言ったからかもしれなかった。 彼からの最後の便りはトルコからだった。黒海沿岸部の小さな町を旅しているようだった。対岸はロシア、ウクライナ、グルジアだ。相変わらずの旅三昧の 様子が羨ましくもあった。ロシアに何年か住んでいたのに、ロシア国内は驚くほどどこへも行っていないのだ。 その後、日本で彼のお母さんから黒い枠の入った通知をもらった。すぐに電話をしてみると、職場での事故で亡くなったということだった。彼の遺品となった 手帳に住所があったので、連絡していただいたらしい。 結局日本では一度も会えなかった。いつも海外でしか会っていなかったから、彼が今でも旅行をしているように思う。ずっと会っていたわけではないから、 いなくなってしまったという実感すらない。でも、もう二度と会えないことは確かで、そう思うと失くしたものの尊さを思わずにはいられない。 シルクロードの旅は夢と消えた。 2005,10,08 HP立上げ2ヶ月 今日でHP立上げ2ヶ月。このコーナーも今日から3ヶ月目に入る。毎週月曜日と金曜日に更新するようにしているが、週2回でも継続的にブログを 書いていくことは結構大変だということがわかってきた。毎日書いている人は、凄いと思う。 比較的時間に余裕があるときに書けばよいのだが、中々そうはいかない。結局夜更けになって、日付が変わってから書くということが多い。 また、まだ実際にお店があるわけでもないので、その日々々の出来事を面白可笑しくネタにして書くこともできない。そのため、勢い過去の記憶から思いつく ままに書いていくことになる。そうなるとテーマはバラバラだ。 「元々”独り言”だから、テーマはあってないようなもの。一貫性がある方がおかしい」などと勝手に考えたりする。 「今後の抱負は?」とか、「お店の方向性は?」などと質問があれば、それに答える形で何か書けるのになぁ、という望みのないことを夢想してみるのだがし、 アクセス数だって限られている現在では、双方向性のブログなど夢のまた夢でしかない。 白昼夢に近い望みかもしれないが、いつかはHPを訪れるお客さんたちと対話をしたいものである。 2005,10,03 |